映画は人助けをしない

最新映画について書くことはあまりありません。基本的に古い映画について書いています。内容は古さを感じないものにしたいです。

自意識を持て余した女子高生を描いたコメディ『わたしはアーティスト』(籔下雷太監督)と『リンダリンダリンダ』

映画は誰かに観てもらうために作られる。商業映画にしろ芸術映画にしろ私映画にしろ、誰にも見られないことを目的に作られる映画は極めて稀だ。映画は第三者を考慮しなければ成立しない芸術といえるかもしれない。

『わたしはアーティスト』という映画がある。*1


『わたしはアーティスト』予告編 ◆SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2015 短編部門◆

「私は特別」という自意識を持て余す女子高生の可愛らしい青春映画だ。孤独の痛みをアート(笑)で埋めようとするけど、誰からも理解されない。容姿はどっからどう見ても普通。アートをやりそうなタイプの顔じゃないし、妹にはちゃかされる。そんな中、「変わってるね」と言ってくれる男子が現われて大変なことに…という、よくできたコメディ。

それでも、一人でもいいから誰かに理解してもらいたいという気持ちが彼女を突き動かす。

冒頭、教室を舞台にしたビデオアートの撮影は、同級生の乱入によって中断を余儀なくされる。誰かに見られてしまった!でもこれは、彼女の希望でもある。見てもらい、理解してもらうためのアート(笑)なのに、見られると突然恥ずかしくなるのはなぜなのか?

無防備だからだ。人は、妄想を垂れ流す時、無防備になる。隙が生じる。周囲が見えなくなる。そこを突かれると、夜道に飛び出した猫のように硬直してしまうのだ。登場人物の「見られた」と、観客の「見ちゃった」がリンクする瞬間、そこに萌えがある。とてもスリリングだ。

「映画を観る」という行為は「のぞき」でもある。安全圏から誰かの人生の1ページをのぞき見る。その背徳感や気まずさといったものが暴露される瞬間が、上記のようなシーンなのだ。

この映画はとても愛しい。過去の自分を観ているような気分になるからだ。自意識を垂れ流して何かを創作したという経験は誰にもである。それはマンガだったり、脳内野球の設定ノートだったり、踊ってみただったり。

誰もが主人公に肩入れしてしまう。そんな中で理解者っぽい男子生徒が現れるもんだから、我々観客は「がんばれ」とエールを送ってしまうのだ。

 

ひとりぼっちで妄想する映画というと、私は真っ先に『リンダリンダリンダ』を思い出す。

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文化祭でのライブを目前に控えた麗しのペ・ドゥナが、夜の体育館に忍び込んで、ステージ上でMCをする。メンバー紹介をして、自己紹介をして、曲紹介をして…誰もが身に覚えのある妄想だろう。だからこそ、実行できる時を待ちきれなくなったペ・ドゥナの気持ちが理解できて、死ぬほど悶えるのだ。

観客がペ・ドゥナに魅了された瞬間、この空間が崩れ落ちることを心配せざるを得なくなる。誰かが体育館に現れるだけで、この女子高生は丸裸になるも同然なのだ。妄想を叶える場が一瞬で地獄と化す!その瞬間をどこかで期待しながら、観客はペ・ドゥナに萌える。

ところで、このシーンの前に、夢のシーンで客席に座るピエール瀧が登場する。これによって、監督の山下敦弘は、ステージと客席がセットであることを観客に認識させているのだ。真夜中の体育館とはいえ油断はできない。ハラハラする…思い出すだけでニヤケが止まらない。なんて良いシーンなんだ!

 

『わたしはアーティスト』は、2015年のぴあフィルムフェスティバルで女性から圧倒的な支持を受けた。共感できるからだろう。男性の私も、共感しまくって、笑いまくって、悶えまくった。この手の青春映画は素晴らしい。

 

 

 

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 山下敦弘監督の『天然コケッコー』のラストシーンも一種の妄想かなと。ペ・ドゥナの先走りに似たものかなと。

 

 

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 PFF映画のエントリー。

*1:籔下雷太監督。ぴあフィルムフェスティバルアワード2015 審査員特別賞、京都賞を受賞。2016年にテアトル新宿で上映された。私はどうしても観に行きたかったが、都合が合わなくて断念した