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映画は人助けをしない

最新映画について書くことはあまりありません。基本的に古い映画について書いています。内容は古さを感じないものにしたいです。

ユロ氏の対極にいる車寅次郎とチャップリン

  1. 喜怒哀楽の感情を持ち、学び、働くなどの活動を行う、人らしい雰囲気。また、住まいについて、いかにも人が暮らす所という感じ。「―のある人」「―の漂う部屋」

せいかつかん【生活感】の意味 - goo国語辞書

 映画における生活感とは何だろうか。

そもそも、我々は普段、どのようなときに生活を感じるのだろうか。

例えば、このような写真を見て、生活感があると考える人はいないだろう。

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この空間は明らかに時間の流れが止まっている。ここにあるのは「生活の痕跡」に過ぎない。

しかし、ここに素朴な服装の子どもの後姿が写っていたとしたらどうだろうか。経済力を持たない子どもがいるということは、この寂れた家屋がコミュニティの一部として機能している可能性があるということになるだろう。子どもにとってこの写真が捉えた空間は生活の場、もしくは日常的な光景なのかもしれない。

このような考えが思い浮かんだ時、我々は生活感を感じ取るのではないか。

一方、この写真にエマ・ワトソンが写っていたら、生活感など微塵も感じないだろう。エマ・ワトソンが周辺で生活しているわけがないと感じるからだ。

要するに、生活感の一部を形成するものとは調和なのだ。あえて「一部」とする理由は、それ以外の要素も含んでいるからで、それはこのエントリーには関係ないので触れない。

 

名著『カリガリからヒトラーへ』で知られるジークフリート・クラカウアーは、その本の中で、第一次大戦後のドイツの一時期に作られた「社会の無気力状態を立証した」コメディを次のように批判している。

フレドはリシーを愛するが、彼女と結婚しようとはしない。彼の嫉妬心をあおるためにリシーはジゴロのチャーリーを雇って派手に彼女に求愛させる。チャーリーの方は踊り子のキティを憧れているが、キティ自身は気まぐれなフレドに求愛されている。正当なカップルを結びつける二重の結婚式が最後のドタン場で事態を解決する。「恋の超特急」という題名のもとで公開された[…]これらのコメディは一定の場所を舞台にしておらず、本物の生活を欠いていた。 *1

コメディにおける生活感の必要性については議論の余地があるだろうが、クラカウアーは一定の場所を舞台にすることで生活感が生じ、笑いにつながると考えていたようだ。

おそらく、言葉や文化の壁があるにしても、男はつらいよ』シリーズはクラカウアーの好物になったのではないかと思う。生活感に満ち溢れた柴又を舞台に、その人柄がひしひしと伝わってくる車寅次郎が七転八倒するスタイルは、彼が批判するコメディの対極に位置するものだ。

また、チャールズ・チャップリンのコメディもこれに当てはまる。彼の映画は、後期の長編映画を除いて、基本的に1〜2つの場面で展開される。2つの場面があるときは、1つは家庭であり、もう1つは仕事場や街路といった社会的な場だ。これらを往来する浮浪者の姿を映し出すということは、彼の日々の生活をカメラは捉えているということになる。「この人はいつもこういったことを繰り返しているのだろう」と考えさせる映画だ。そこにチャップリンの魅力がある。人生は同じことの繰り返し。そこにある秩序をかき乱すことで笑いが生じるのだ。

クラカウアーと真逆の意見を述べたのがアンドレ・バザンである。ヌーヴェル・ヴァーグ父親として知られる彼は、ジャック・タチ『ぼくの伯父さんの休暇』(1953)を絶賛する「ユロ氏と時間」という論文の中で、次のように述べている。

ヴァカンスでないときのユロ氏はいったい何物なのか。このおかしな海岸にいる夏の住人たちのだれをとっても、その職業、あるいは少なくともその感心事をありありと思い浮かべられる。[…]だが、ユロ氏の乗るおんぼろのアミルカーはどの時代のものでもなく、実のところ、どこから来たものでもない。時間から逸脱しているのである。ユロ氏自身についても、ヴァカンス以外の十ヶ月は消え去っていて、七月一日になるとフェードインしてくるかのように自然に登場してくる、そんなふうに想像したくなる。 *2

 ユロ氏と生活感は水と油だ。この世界でただ一人、時間の束縛から逃れた彼のバックストーリーを創造することは困難である。だからこそおもしろい。普通の光景に見えても、彼が現われることで空気が一変する。明らかな異物として秩序をかき乱す。彼が、不思議な構造をした彼の家の玄関口からリビングに向かうまでの様子を外から映した『ぼくの伯父さん』(1958)のワンシーンは、「建物の内部構造」を彼が破壊して回っている様子を捉えてもいるのだ。さらには「音」の常識さえ覆す自由奔放さがジャック・タチ映画の魅力のひとつである。

 

車寅次郎とチャップリンはユロ氏と明らかに異なる性格を持っているが、秩序をかき乱す存在であるということは一致している。そこに生活感がどう関わっているのか、それによって笑いの質が変わるのか?この謎に迫るのも面白そうだ。

 

 

 発音はタチでもタティでもいいけど、一番好きなのはこの作品。

*1:ジークフリート・クラカウアー(丸尾定)『カリガリからヒトラーへ』(みすず書房、1970年)143ページ。

*2:アンドレ・バザン野崎歓、大原宣久、谷本道昭)『映画とは何か(上)』(岩波書店、2015年)71−72ページ。