映画は人助けをしない

最新映画について書くことはあまりありません。基本的に古い映画について書いています。内容は古さを感じないものにしたいです。

落ち込んだ時に見るチャップリンのパントマイム『午前一時』

好きだったはてなーが殺されてずいぶんと落ち込んだ。好きな人が突然死した、というのは何度か経験しているけど、殺された、というのは初めてだったので、久々に一つのことに心が囚われてしまった。

こういうときは、何かを忘れたいときは、私はチャップリンを見る。名作や、凡作や、見るべきところがないわけではない程度の作品は見ない。決まっている。『午前一時』だ。

 


Charlie Chaplin ONE A M

 

この映画にはストーリーがない。酩酊した男が夜中に家に帰ってきて(でも外は明るい)、酔っぱらいながら何かをする。そのパントマイムを純粋に楽しむための映画だ。

チャップリンは早く寝たい。でも、エンターテイナーの宿命で寝室への道のりはとても険しい。タクシーから降りることさえ一苦労だ。ようやく降りたと思ったら、タクシーのメーターがぐるんぐるん回って、いくら払えばいいのかわからない!ついに支払いを終えてドアを閉めるとスーツが挟まってしまって……

タクシーに乗っている男がタクシーから降りて立ち去る、というたったこれだけのシーンに、なんと2分もかかっている。2分も!やっと家のドアにたどり着くも鍵がない……窓から部屋に侵入するころには、すでに3分経っているのだった。そこらへんの出来上がったオッサンの貴重な帰宅シーンは惨めだが、チャップリンの場合は一流のパントマイムで観客を飽きさせない。

室内の中央には振り子時計。等間隔で左右に揺れる。シンメトリーな画面構成は男の「通常時の」ステータスを象徴するかのように厳格だ。しかし、酒の力が振り子の秩序を乱してしまう。玄関脇のテーブルに置いてある鍵を手にもう一度窓から外に出て、鍵を使ってドアを開ける。思考回路がメチャクチャなのは言うまでもない。タクシーのシーンでは、男は振り回される客体だった。しかし、これ以降、彼はひたすら秩序を乱す主体として画面を動き回る。

チャップリンは地球の常識をかき乱すことで笑いを生む。他の作品(『犬の生活』以降としておこう。なぜ『犬の生活』でキャリアを分けるのかについてはいずれ書きたい)と『午前一時』の大きな違いは、「かき乱すこと」に目的があるかどうか、ということだ。例えば、私の大好きな『独裁者』の散髪シーンの場合、街の住人たちの生活が脅かされる中での労働という大義があった。『午前一時』では、30分間ずっと続くパントマイムを経て達成される「睡眠」は映画のゴールであって、その先には何もない。「映画は人生の一部を切り取ったもの」と言うが、この映画の場合は人生の一部を天体望遠鏡で覗き込んだような、人生のごくごく一部を切り取っている。この文章を書いている私が午後11時頃に家に帰ってきて、飯を作り、風呂に入り、パソコンで文章を書いている。この部分だけを切り取ったとして、それの何が面白いのか?人生の一部=カット・シーンは編集されることで初めて面白くなるのだ。しかし、コンティニュイティを強く意識したこの映画では、本来つまらないはずの人生のごくごく一部が、なんの脈絡もなく提示される30分のパントマイムが、面白い。この男の人生をもっと知りたくなる。シラフの時にどんな失敗をして、どうやってリカバーして、美味しく酒を飲むのだろう。誰と、どこで、どんな表情で?

男は究極のエンターテインメント存在として支離滅裂なパントマイムを披露する。次第に、この男が何をしているのかがわからなくなってくる。彼は寝たいだけだ。疲れていたり、酔っ払っている人間はあっという間に、どこででも寝ることができるだろう。しかし、冒頭を思い出してみると、この男は窓から室内に侵入して鍵を入手し、もう一度外に出てドアのロックを鍵で開けてはじめて「帰宅」を果たすような男だ。寝るときはベッドの上!それ以外はありえない!狂気じみたパントマイムの中に一貫性を見いだせる。このおかしさが『午前一時』の本質だ。

ようやくベッドにたどり着くも、ベッドの上で横になることさえ許されない。逆さになったベッドの「表面」や、ベッドがあった場所の床で寝ることもできない。ついにベッドは壊れ、からっぽのバスタブでようやく眠りにつく。あれほど固執した「正しさ」を放棄し、安らかな顔で眠る男の姿を見て観客は「それでいいんだよ」と安堵するのだ。

30分の映画のラストショットにある安らぎを求めて、私はこの映画を見る。心が乱れたときには、チャップリンに助けてもらう。まあ、これで今日は眠れるだろう。

 

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