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映画は人助けをしない

最新映画について書くことはあまりありません。基本的に古い映画について書いています。内容は古さを感じないものにしたいです。

映画における「先味・中味・後味」とは

考察

飲食業には「先味・中味・後味」という考え方があるらしい。

雰囲気やインテリアが先味、

味や接客が中味、

食事を済ませてからの諸々が後味……らしい。

全てが優れていればそこはいい店、ということなのだそうだ。

 

 

この概念を1本の映画に当てはめると、

先味は予告編や試写会。

中味はいうまでもなく映画そのものの面白さ。

後味はレビューや批評などの感想の披露や観客同士の語り合い、二次創作が当てはまる。

 

確かに、どれかが欠けるとその映画は失敗した、ということになるだろう。

先味、つまり前評判が悪い映画は客が入らないし、悪い先入観を観客に与えてしまう。仮に面白い映画だったとしても、観客が少ない分後味が盛り上がらない。大衆の記憶にも残らないし、制作側も損をする。

中味が悪いということは映画がつまらなかったということになる。これは先味が良いほど後味が悪い意味で盛り上がってしまう。悪評が残ってしまうわけだ。制作側に大きなダメージが残ってしまう最悪の結果となる。

後味が悪いということはどういうことか。先味も中味も失敗している場合がほとんどで、興行的にも失敗したことの証明だ。また、『幻影師アイゼンハイム』のように面白くもつまらなくもない映画でも起こりうる。語りたい!と思わせられない映画はダメだ。松本人志の『しんぼる』のような悪い意味で盛り上がるのもダメだけど。

 

いい映画は「先味・中味・後味」が全て優れている。いい映画は特に後味が盛り上がる。今年で言えば『シン・ゴジラ』『君の名は。』『この世界の片隅に』がこれに当てはまるだろう。『シン・ゴジラ』における蒲田くんと尾頭さんブームはその典型だろう。『君の名は。』は特に賛否が分かれているが、これによって興味をそそられる観客も少なくないはずだ。つまり、後味は先味としての機能も有するのである。公開時に形作られた後味が後に先味になる。乗り遅れた人たちは先味を参考にしてTSUTAYAや名画座に行くのだ。また、『この世界の片隅に』は出演者と作品のシンクロによる盛り上がりも見せている。

無性に語りたくなる「謎」が残される映画も後味が盛り上がるケースの一つだ。古い例を挙げれば、多くの批評家や文筆家、一般の観客を魅了した小津安二郎の『晩春』における壺のショットの謎。読解を試みた世界じゅうの人々の多様な解釈を読むことも『晩春』の楽しみ方の一つだ。最近の映画だと『ミスト』の結末に関する議論もこれに当てはまるのではないか。

 

ついさっき聞いた「先味・中味・後味」の概念でとりあえず文章を書いてみた。これについて考えるのは結構面白そうなので、いずれちゃんとしたものを書いてみようと思う。

 

 

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ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」での『幻影師アイゼンハイム』の盛り上がらなさは異常だった。